最近、彼氏らしい人ができまして。
色々と他人というものに対する意識のようなものに変化がありましたのです。
「らしい人」というのは、明確にそうしようという言葉の契約がなされてないからです。
言葉の契約がなくてもそうなる人はいるし、別にそれは気にしてないんです。
仕事の忙しいというのは重々承知してるし、それ以外にもやってる事があるので多忙な人で、多分忙しいのが好きな人なんだと思います。
そういうのも構わないんですが、向こうが中々会えない期間に会いたいと思ってくれているのかがとても気になります。
そんな素振りを見せないので。
八連勤であと一日残っていて疲れているのに土日休みの私に合わせて夕食に誘ってくれた事は本当に嬉しかったです。
ただあまりにそういう素振りを見せず、駅で別れるときもあっさりとしたもので、私は寂しかったんだけど向こうはどうなんだろうと思ってしまいました。
面と向かって聞くにはお互いの態度に差がありすぎ、せめてメールや電話でコミュニケーションをとりたいと思いつつ、モーションをかけてますが現在片思いですね。
会えないのは仕方ないのでさすがにそこは割り切っていますが、気持ちだけでも側に居て欲しいですね。
とまぁ、のろけですみません;;
下からは真面目な話。
ぶっちゃけハツカレなんですが;
いい年してマジですよ。
なので色々と始めての感覚なんですが。
あんな小説を書いていても恋愛話になると自分的には違和感がすごいあって正直納得してないんです。
それっぽいことと萌え的な要素を理屈で詰め込んでるだけです。
というのも、私は長年人とのかかわりをある程度制限してきたのでコミュニケーションの取り方が微妙にわかりません。
今となっては性格になってしまっていて、でもそれを自分自身だと受け入れる事にとても時間がかかりました。
感情的でいつもイライラしていました。
優しい家族(しかも7人の大所帯)や小学校からの二人の親友に囲まれて幸せなはずなんですが、心の中では耐えようもない孤独感で眠れない日が続き、他人との関係が空回りして、それにも慣れたのに慣れなくて、自分という汚い人間を認められなくて、そのくせに手癖の悪い事も色々しました。
人が怖くて怖くて仕方なかった。人は私を傷つけるものだった。
家族と友人は大好きでした。でもどうしても信用できなくて、頼れないと思っているのに甘えっぱなしな自分が嫌いでした。
きっとそういう人は沢山居るんだろうと思います。
でもその気持ちを持っているのはその人にとって自分ひとりだけなんです。
同じ気持ちを抱えている人が居てもその人が自分の気持ちを分ってくれるわけじゃないんです。
そこが世間と本人たちの間の認識のズレだと思うけど。
「皆同じだよ」って言われるのが嫌いでした。
どうして私を見てくれないのかと苛立ちました。
でも私の周りの人たちは、私を見守ってくれてる事を頭では理解してるんです。
じゃあどうして私は満足しないのか?
そう考えた時にようやく分りました。
私が自分を嫌いだから、こんな嫌な人間を見守ってくれる皆のことが理解できないんだ。
もしかしたら自分を好きにならなければ、人を信用できないんだ。
私を見守ってくれてる大好きな人たちは、私の幸せを願っている。
私の幸せってなんだろう?
とりあえず、こんな汚い人間の私を大切にしてくれてる皆を困らす事だけはしたくない。
どうしたらいいんだろう?
これに気付くのに10年くらいかかりました。
でも生理的に嫌いな人間を好きになれなんて難しいですよね?
それからは自分自身との葛藤の戦いでした。
たぶん、10代の若い故のエネルギーが全てその辺りに行ってしまったんですね。
今思えばそんなことに囚われずもっと楽しい事を色々とすれば良かったと思いますが、それが私の10代の全てでした。
ある時、自分を好きになるためには家族でも親友でもない、他人に好かれなければ私は無理だと思いました。
でも他人を好きになるには自分を好きにならなければいけない。
その矛盾に苦しみつつ、なんとなく気力が萎えていきました。
だってそんなの私だけの問題じゃないじゃないか、と。
他人が私を好きになるのは他人の問題です。
じゃあ私が他人を好きになるのは私の問題なんです。
私が他人を好きになるとは?
人を見ていると、皆他の人のためにほんのちょっとの気遣いを見せています。
社会の中で生きる為には必要な思いやりや、礼儀や、必要な距離感です。
10代の頃には理解できなかったそんな打算的なやり取りを私は必要な事なんだとようやく思い始めました。
でも他人に思いやりはもてなかった。
自分が傷つけられるのが怖かった。
だから先に他人を傷つけてきました。
でも、大切な人たちまで傷つけたくないのに沢山傷つけてきました。
私は酷い人間で、こんな私が大切でもない他人に思いやりなんて持てる筈がないと感じました。
私は一生、他人と心を通わせないまま過ごすのかと思ったとき、酷い寂しさを感じました。
死ぬ時も、悲しんでくれる人が居ない自分を惨めだと思いました。
それなら、私は社会と言うなの他人の中で、必要ない人間なんだと思った。
家族や親友はいずれ離れて暮らすことは分っていたから。
それぞれ自分で一緒にいる他人を見つけなければいけないんだと漸く気付いたから。
必要ない人間ならもう居なくなってしまいたい。
でも自殺するには私は環境に恵まれすぎていて、大切な人たちを裏切る事が出来なかった。
それどころかきっと泣いて悲しんでしまうから、死んでまで人を傷つけるのは絶対嫌だった。
そんな恵まれている自分は幸せ者だと思わなくてはいけない、と強く思いました。
でも恵まれている自分を好きにはやっぱりなれなかった。
私はこんな汚い人間の私と一生共に歩んでいかなければならないんだと思いました。
私は、一生私と付き合っていかなければいけないんです。
ということは、私が私の一番の友人なんだと気付きました。
見放す事は絶対に出来ません。嫌でも見ていなければならないからです。
だったら、泣いてる自分を宥める事ができるのも自分なんだ。
じゃあ、汚いところもたまにあるいい所も全てひっくるめて付き合ってくれるのは自分自身なんだ。
一生自分自身がついているんだと思ったら、少し穏やかになれた気がしました。
何かを諦めたのかもしれませんし、孤独感がなくなることもありませんでしたが、それから少しだけ自分が変わった気がしました。
2年前に新たな友人ができ、その二人から大きな感銘と嬉しい言葉を貰いました。
私が欲しかった、言葉です。
それから一週間は地に足が着かないほどの幸福感が襲ってきました。
あれは味わった事のある人にしかわからないと思うので詳しくは書きませんが。
その友人ともいつか別れる日が来るかもしれないことは分っていました。
それでもその時の言葉は私の中では本当の言葉でした。
いつか別れるかもしれない。でも初めてこんなに好きになった他人に、同じように思ってもらっていたことが本当に嬉しかった。他人と初めて気持ちを交わせたんだと思いました。
あんな気持ちは一生に何度感じることができるでしょうか。
実はそれも切っ掛けに過ぎません。
運命論は信じませんが、出会うべくして出会う人間というのはいるのだと私は思います。
自分が欲しいと思っていたら欲しい人には出会えると。
理想ではないんです。
その時自分が求めている役割の人物がいます。それを無意識に自分で探してしまうんです。
今までにも実はそんなチャンスは沢山あったのだと思います。
ただ自分が見ようとしなかっただけです。
そんな持ったないことはなるべくしたくない。人と関わりたいとこの時ようやく思い始めました。
既に二十歳を越えていましたけどね。
その後も人とのコミュニケーションはうまくとれずに反感を買うことが多く、神経のバランスが取れずに体調や精神的にもずんどこに落ちたこともありました。
あれは今でも怖いです。
今までは自殺するのに一々切っ掛けがありましたが、その時は切っ掛けなんてなかったので怖かったです。
ずっと恋人が出来ない私を心配する母に理由やなんかを言うのも疲れました。
だって理由なんて、人がまだ信用できないから、じゃないですか。
でも分らないんです。
分らない人もいるんです。
こんな気持ちになったことのない人にとやかく言われたくないと思うのは当然です。
でも、じゃあやっぱり自分が変なのかな?
変な私は人に好かれないじゃない。
人に好かれなくても、せめて人を思いやれる人間になりたかった。
せめて家族に思いやりの持てる人間になりたかった。
でも私の一生の全てを今の家族と過ごすなんて出来ないことは知ってる。
親は私より先に死んでしまうのに。
兄弟は他に家族を持つのに、私がいつまでもこの家に居ることはできない。
そんなことは分っているのに。
そんな葛藤もありました。
心の風邪は一ヶ月ほどしたら大分落ち着きました。
やっぱりその時も、「人はこうして生きていくんだな」と感じました。
その時何となく、こんなに落ち込むことがあってもこういう風に考えられる自分というものが好きになってきました。
もしかしたらこの十何年間、ずっと苦しんできたのは無駄なことではないのかもしれない。
もし、私より若い子で同じような苦しみを持っている子が居た時に、私は何も出来ないけどせめて話を聞いてあげることが出来るかもしれない。
私が家族や友人に甘えてそうしてきたように。
どんなに暗くても、言い訳ばかりの話でも、暴走してもただその子が漏らす言葉を聴くだけなら何時間でも、一晩中でも付き合えるかもしれない。
そういう人間は中々居ないかもしれない。
いえ、別にたくさん居てもいいんです。
ただ、周りの見えない子たちには、居ないんです、そういう人が。居ても気付かないんです。
でも一人いると気付いたら、安心するかもしれません。
そういうささやかな希望を見出した時、少しずつ自分を取り戻していけました。
この年になってようやく心の準備が出来て、欲しいものリストの中に彼氏の項目が出来ました。
出会いは偶然で突然で意識するより流れに身を任せることを覚えました。
自分の感情だけではなく、相手のことを思ってそれを抑制することを覚えました。
そんな自分が嬉しいと思えるようになりました。
長年の願いは叶ったけれど、最初ののろけ話のように全てが幸せ一杯というわけではありません。
正直本当に好きなのかも私自身疑問なところなので好きだって言った事ありません。
だから向こうも言わないのかな?
でも一緒に居たいです。
側に居て欲しいです。
そう思えた人は初めてなんです。
親友に言わせると相手に思いやりがないそうですが、それが向こうの性格ならそのまま受け止めるしかないと思いませんか?
寂しいと思う。そう思ってくれたら嬉しい。
会いたいと思う。思ってくれたら嬉しい。
でもそう思ってくれなければ恋人ではない。
というのは違う気がするので。
人それぞれの思いのペースもあるし、思いのカテゴリーの違いもあると思う。
私は愛かと言えば首を傾げますが、恋と言えば頷けます。今のところね。
例えば相手が私を心の底から愛してるから同じように愛してくれ、なんていわれても困りますからね。
理性では分っているのですが、寂しさは募る一報なんで、この矛盾が恋愛というものなんだと最近ようやく分りました。
そうやって分っていくのが私の楽しみだし、そうやって楽しめる自分が何気に好きです。
今まで沢山辛い思いはしたけれど人生捨てたものじゃないと思います。
だってこれからも沢山辛い思いはするかもしれないけれど、私の人生を変えた友人や彼と出会えた事は大きな幸せの一部だから、まだまだそんな素敵な出来事があるじゃないですか。
あ~思いの丈をぶつけたらスッキリしました。
実はさっきまで寂しくて泣きそうだったんですけどね。
メール帰ってこないし。
まぁこれだけの長文は全部独り言なんですが、もし今何かに悩んでる人が居て、もし何かを感じてくれたら私はまた生きていた意味を感じられます。
そして私の人生の回想にうざったいはずなのに付き合ってくれた方々に感謝します。
私にはまだまだいけない所や汚い所やしょうもない所がたくさんあり、未だに人に疎まれることが得意です。
多分根っからの性格が微妙なんだと思います;
本当に人付き合いが下手なんです;
でもそのままで生きていてもいいんじゃないかと思います。
今自分の存在に悩んでる人もきっと生きていていいんですよ。
世界には沢山の人間が居ますから、貴方と一緒に生きていける人も居るはずです。
だから世界に目を向けてみてください。
自分の殻に閉じこもらないで、ちょっと人の言葉に耳を傾けてみてください。
世界に貴方は一人じゃないから。
焦らないで、ゆっくり自分と対話してみてください。
そして自分の周りに居る人にほんの少しだけ感謝してみてください。
「ありがとう」と口癖になるくらい言ってください。
嬉しい気持ちを表して下さい。
そうしたら貴方の身近な人が、嬉しくなるかもしれません。
人を喜ばせてみたい、と願えたら貴方はもう一人じゃありません。
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